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戦後の南陽市 吉野鉱山編

広報ブログ, 2015年09月14日

編集部
投稿者: 編集部
南陽市の情報を収集し、まとめ、記事化しているボランティアスタッフが投稿しています。

南陽市の鉱山といえば、吉野・金山地域が有名ですが、うっすらとしか知らない方がほとんどかと思います。

今回は、吉野地区の鉱山のことをご紹介いたします。

吉野地区で明治時代以降に採掘された主な鉱山

吉野地区の主な鉱山

吉野地区の鉱山は江戸時代以前からの歴史を誇り、金・銀をはじめ、鉛・亜鉛・重晶石・石膏などを産出し、戦前までは、小規模な鉱区が群棲しており各々操業していました。世界経済や戦争に揉まれ、開発・休止・閉山を繰り返すのは鉱山の宿命であり、吉野地区の鉱山も同様でした。

そんな折、復活を遂げるのは、やはり朝鮮戦争特需後の昭和30年。毎日新聞山形版は「脚光浴びる吉野鉱山、近代化に突貫工事。県下一の銅山目指して」と報じています。

脚光浴びる吉野鉱山、近代化に突貫工事。県下一の銅山目指して
約100万トンの埋蔵量が確認され、近代化された鉱山として月産3000トンの銅の採鉱に向けて突貫工事が進む。同時に70棟の社宅・集会場・独身寮と鉱山から宮内町駅まで11kmが特別産業道路として敷設される計画だ。

吉野鉱山算出データ

昭和32年:6000トン/月
昭和35年:8500トン/月
昭和38年:12000トン/月
昭和46年:鉱内採掘休止後、露天堀り
昭和50年:カドミウム汚染問題があり、休山

鉱山社宅世帯数

希望が丘+緑ヶ丘151世帯(金山総戸数198戸)

※現在、軒を連ねた社宅は撤去され、緑深い自然に帰っている。

資料参照:昭和41年南陽市合併申請資料より

吉野地区で突出した企業が生まれる

浮き沈みを繰り返す吉野地域の鉱山、その中で産出と加工・販売まで手がけた吉野石膏が頭角を現します。

明治34年、山形県吉野鉱山にて石膏原石の採掘を開始し、さらに大正元年、宮内に製造工場を置き、唯一の国産焼き石膏として全国に販売開始とあります。

吉野石膏山(吉野石膏採掘所)において、石膏を採掘・精製していた業者が明治年間(1901年ごろ)に後の吉野石膏を創業。その後アメリカで開発された石膏ボードの生産と普及に努めたことによって全国的に知名度が高まった。

大正8年、創業者が病のため、須藤永次氏・石黒七三郎氏が共同出資した会社に経営が引き継がれ、その後、本社を東京に移し、戦後、建築に不可欠な石膏ボードの生産で飛躍的に業容を拡大。タイガーボードでおなじみの、現在の吉野石膏株式会社です。

現在、吉野石膏株式会社は東京都千代田区丸の内に本社を構え、従業員数は900名、売上は1,252億円(2014年12月実績)を誇ります。
市場占有率は、脅威の80%!タイガーボードは、その大半が壁・天井として使われ、住宅用が75%、ビル用が20%、工業用が5%となっています。

南陽市から生まれた誇るべき大企業です。

ぼくはターイガー、しかも強くて丈夫ですっ!!

現在の吉野地区の鉱山

吉野鉱山の現在
吉野鉱山の現在
参考:吉野鉱山(山形県南陽市)

吉野鉱山は、現在採掘をやめ鉱害防止の為、大きな池で中和処理を行っています。沈殿池は大きく消石灰で白くなっていて、池の中に消石灰及び廃坑よりの排水を送るパイプが走っているのがわかります。

熊が出る地域ということで、見学の際は要注意クマー(๑・㉨・๑)。

まとめ

吉野地区から生まれた全国企業吉野石膏株式会社。

吉野石膏株式会社は、南陽市はもちろん、山形県と交流を継続しており、南陽市では吉野石膏の森活動を、また文化環境活動として山形県各所美術館に美術品の寄託をしています。さらに寄付や寄贈を通して、幅広く南陽市に還流する吉野石膏株式会社。今後、南陽市との関連情報を要チェックですね。

南陽市には、モンテディオ山形のスポンサーNDソフトウェア以外にも有名な企業がありますし、歴史もあります。

今後も少しづつ、ご紹介していきます(`・ω・´)ゞ